ホテルにおける香りが顧客行動に与える影響:脳科学・環境心理学・マーケティングの視点から

はじめに

ホテル業界において、顧客体験の質を向上させるための手法は多岐にわたります。建物のデザインやサービスの質だけでなく、近年では「香り」を用いた環境デザインが注目されています。
香りは、感覚的な要素でありながら、心理や行動に強く影響を及ぼすことが脳科学的にも示されています。
ホテルにおける香りの効果は、単に快適な環境を提供するだけでなく、リピート率や滞在時間、顧客の満足度に影響を与えると考えられます。
本稿では、香りが顧客の行動や心理に与える影響について、脳科学、環境心理学、マーケティングの観点から詳細に検討し、そのメカニズムと具体的なホテルでの応用について論じます。

 

 

 

香りと脳の関係

 

香りは嗅覚を通じて直接脳に働きかけ、感情や記憶に強く結びつきます。
嗅覚は、脳の『辺縁系』に直結しており、これは(特に海馬や扁桃体)といった感情や記憶を司る領域に影響します。
このため、香りは瞬時に感情に働きかけ、記憶を引き出す力へと導くのです。
例えば、特定の香りが漂う場所に戻ると、過去の体験が鮮明に思い出されることがあります。
この現象を利用することで、ホテルのブランディングに香りを取り入れる「シグネチャー・フレグランス」が世界中の高級ホテルで実践されており、実際、私が働いていたザ・リッツ・カールトンやセントレジスでもこれが使われておりました。

 

さらに、特定の香りはセロトニンやドーパミンの分泌を促進し、顧客の気分を向上させることも研究で示されています。
後に詳細を書きますが、例えばラベンダーの香りはリラックス効果が高く、副交感神経を刺激してストレスを軽減することが明らかになっています。このため、リラクゼーションを目的としたスパやホテルの客室で使用されることが多いです。

 

環境心理学における香りの役割

 

環境心理学では、空間が人間の行動や感情に与える影響について研究されており、その中で「香り」は重要な要素とされています。環境の質は、感覚的なフィードバックを通じて心理的な反応を引き起こし、特にホテルのようなホスピタリティ産業では、快適な環境づくりが顧客満足度に直結します。

 

香りがもたらす心理的な影響には、主に以下の3つが挙げられます。

 

1. 快適さの向上
快適な香りは、空間の居心地の良さを高め、顧客が長く滞在するよう促します。
例えば、ヒノキの香りは、自然との結びつきを感じさせ、安らぎと癒しを提供します。これは、旅館などで使用されることが多く、伝統的な和の空間と調和し、リラックスした時間を提供します。

   

2. ストレスの軽減
特に都市部の宿泊特化型ホテルやビジネスホテルでは、ビジネス客が多く、ストレスや疲労が溜まりやすい環境のかたも多く利用しています。そのため、これらのホテルでの香りには、顧客のストレスを軽減し、リフレッシュさせる役割の香りを使用することが良いかもしれません。
ペパーミントやユーカリの香りは覚醒効果があり、集中力を高めると同時に、疲労感を軽減する効果があります。これにより、顧客がホテルでの滞在をリフレッシュの機会として捉え、再訪の可能性が高まります。

 

3. 行動変容の促進
香りは、顧客の行動にも直接的に影響を与えることが示されています。例えば、柑橘系の香りは活力を与え、ポジティブな行動を引き起こすことが知られています。これにより、ロビーやラウンジなど、社交的な場でのコミュニケーションが促進される可能性があります。
顧客が香りに誘導され、社交的な行動を取ることは、ホテルの顧客同士の交流や滞在時間の延長につながり、ホテルにとってもメリットがあります。

 

マーケティングにおける香りの活用

 

ホテルにおける香りの効果を最大限に引き出すためには、戦略的なマーケティングが重要です。特に「感覚マーケティング」という概念が近年注目されており、香りは視覚や聴覚とともに、ブランド体験を強化するための重要な手段とされています。

 

1. シグネチャー・フレグランスの導入

多くの高級ホテルでは、シグネチャー・フレグランスという概念が導入されており、これはそのホテル特有の香りを提供することで、顧客の記憶に深く刻まれる体験を作り出すものです。例えば、ホテルチェーンであれば、どの国に行っても同じ香りを漂わせることで、顧客は「この香り=このホテル」と無意識に結びつけます。これにより、顧客はその香りを嗅ぐたびに、ホテルでの快適な体験を思い出し、再訪の意欲を高めることが期待できます。

 

2. 香りと購買意欲

香りが購買意欲に与える影響についての研究も進んでいます。特にラグジュアリーホテルのロビーやショップでは、香りが消費行動に影響を与えることが示されています。ある研究では、心地よい香りが漂う空間では、顧客がより高額な商品を購入する傾向があることが明らかになりました。これは、香りが顧客の気分を高め、ポジティブな心理状態にすることで、財布のひもが緩むためと考えられます。

 

具体的な香りの選定と応用事例

 

ホテルにおいてどのような香りを選定するかは、そのホテルのターゲット顧客層や提供する体験によって異なります。以下に、具体的なアロマオイルの効能と脳科学の視点から、選定とその応用事例を挙げます。

 

1. 高級ホテル

【提案する香り: ジャスミン、ローズ、サンダルウッド、バニラ】
 

ジャスミンやローズは、リラックスと幸福感をもたらすアロマオイルとして知られており、セロトニンとオキシトシンの分泌を促進します。これにより、顧客はリラックスした状態で特別な時間を過ごすことができ、ラグジュアリーな体験が強化されます。特にジャスミンは、心の緊張を和らげ、気分を高める効果があり、豪華な雰囲気を演出します。
 

サンダルウッドは、心を落ち着かせる効果があり、瞑想や深いリラクゼーションに役立つ香りです。静かで安らかな空間を提供する空間には最適です。
 

バニラは、温かみと安心感を与える香りで、ストレスを和らげる効果があります。これにより、顧客は心身ともにくつろぎ、より深いリラクゼーションが得られます。

 

2. シティホテル

【提案する香り: 柑橘系(レモン、グレープフルーツ、ベルガモット)、ローズマリー、ペパーミント】

 

柑橘系のアロマオイル(レモン、グレープフルーツ、ベルガモット)は、気分を高揚させ、ストレスを軽減する効果が知られています。これらの香りは、セロトニンの分泌を促進し、脳の報酬系に作用して幸福感をもたらします。シティホテルは主にビジネス客や観光客が多いため、活力とリフレッシュ感を提供することが求められます。これらの香りは、顧客がリラックスしつつも、エネルギーを回復できる環境を作り出します。

 

ローズマリーは、記憶力や集中力を高める効果があり、脳の血流を増加させるとされています。ビジネス客にとっては、仕事の効率を上げるために有用です。

 

3. ビジネスホテル

【提案する香り: レモングラス、ペパーミント、ローズマリー】

 

レモングラスは、集中力を高める効果があり、ビジネスパーソンにとって最適な香りです。また、ストレスを軽減し、爽やかな気分を保つ効果もあります。

 

ペパーミントは、覚醒効果があり、疲れた身体や頭をリフレッシュさせる効果や、疲れを感じたときに再び活力を与えます。特に会議前や仕事をしている間に、気分をリフレッシュさせるのに適しています。

 

ローズマリーは、脳を活性化させ、記憶力や集中力を向上させる効果があるため、ビジネスホテルの宿泊者にとって重要な効能です。

 

4. 旅館

【提案する香り: ヒノキ、グリーンティー、ラベンダー】

 

ヒノキは、森林浴効果を持ち、リラックスを促進し、ストレスを軽減する効果があります。日本の伝統的な自然と調和する香りとして、心身をリフレッシュし、落ち着いた時間を過ごすのに最適です。また、ヒノキの香りは副交感神経を活性化させ、深いリラクゼーションをもたらすことが知られています。

 

グリーンティーの香りは、清潔感があり、集中力を高める効果もあります。リラックスしながらも、さわやかで軽やかな印象を与え、静かな時間を提供します。

 

ラベンダーは、リラックス効果が非常に高く、特に不眠の改善やストレス軽減に効果的です。旅館の穏やかな環境にぴったりで、深い睡眠を促進します。

 

5. ペンション

【提案する香り: ラベンダー、ゼラニウム、カモミール】

 

ラベンダーは、リラックス効果と不安軽減効果があり、神経を落ち着かせます。家庭的でアットホームなペンションにおいて、リラックスした時間を提供するために非常に適しています。また、快適な睡眠を促進するため、短期滞在の顧客にも最適です。

 

ゼラニウムは、気持ちを安定させ、バランスを取る効果があります。心身の調和を促進し、リラックスと幸福感をもたらします。

 

カモミールは、鎮静作用があり、心を落ち着かせる効果があります。ペンションでは家庭的な雰囲気が大切なため、穏やかで優しい香りが適しています。

 

6. オーベルジュ

【提案する香り: バニラ、シナモン、ローズマリー、バジル】

 

ローズマリーやバジルは、頭をすっきりさせる効果があり、食事の合間にリフレッシュするのに最適です。料理の香りと相性がよく、食事を邪魔せずに心地よい雰囲気を作り出します。

 

バニラは、心を温め、リラックスさせる効果があり、料理との相性が良い香りです。オーベルジュの美食体験を一層豊かにするため、心地よい安心感を与えます。

 

シナモンは、食欲を刺激し、温かみのある雰囲気を作り出します。特に寒い季節には、リラックスと共に心地よさを感じさせる香りです。

 

7. レジャーホテル(ラブホテル)

【提案する香り: イランイラン、サンダルウッド、パチョリ、ローズ】

 

イランイランは、官能的な効果を持ち、リラックスと共に性欲を刺激するとされています。脳内でドーパミンを分泌させる効果があり、ラブホテルの親密な空間に最適です。イランイランは、心身を落ち着かせつつも、感覚を高める作用があります。

 

サンダルウッドは、深いリラクゼーションをもたらすとともに、心を安定させ、静けさと親密さを強調します。

 
 

ローズは、愛と情熱を象徴する香りで、特別な時間を演出します。

 

その他施設(カジノ、商業施設等)における研究

 

カジノやその他の商業空間で香りを利用することが、行動に影響を与えるという研究はいくつか存在します。具体的に「良い香りが掛け金を上げる」ことについての脳科学的な研究については、次のようなものがあります。

 

1. 快適な環境が消費行動に与える影響

カジノにおける研究や、他の商業施設で行われた実験では、快適な香りが人々の気分を向上させ、ストレスを軽減し、その結果としてリラックスした状態でより高額な支出をする傾向があることが示唆されています。特に、リラックスした状態ではリスクを取りやすくなるため、賭け金が上がる可能性が指摘されています。

 

2. 脳への影響:扁桃体と報酬系

香りは嗅覚を通じて直接、脳の扁桃体(感情の調節を司る部位)や報酬系に影響を与えることが知られています。良い香りは、快感をもたらし、報酬を感じる脳の領域(例えば、腹側被蓋野や側坐核)を活性化させることが研究で確認されています。
このような神経経路の活性化が、リスクを取る行動や賭けに対する意欲を増加させる可能性があると考えられています。

 

3. 具体的な実験例

一例として、ある研究では、カジノの一部のエリアに香りを導入し、賭け金やゲームプレイ時間が増加するかどうかを調査があります。結果、香りが導入されたエリアでは、プレイヤーの滞在時間が長くなり、賭け金が増加する傾向が見られたという報告があります。

 

4. 香りの種類と効果

そこで、香りの種類がとても重要になってくるでしょう。たとえば、バニラやラベンダーのようなリラックス効果が期待される香りは、落ち着いた気分を促し、ストレスを軽減するため、結果的に賭けに対してより積極的になる可能性があるとされています。
一方、柑橘系の香りは、より活気や注意を喚起する効果があり、プレイヤーの集中力を高めるといった作用も期待できます。

 

まとめ

 

ホテルにおける香りの効果は、単なる快適な空間作りにとどまらず、顧客の感情や行動、購買意欲にまで影響を与える重要な要素です。
時には香りは、私たちをタイムスリップさせ、記憶や感情を呼び起こす独特の力もあります。それは、ある人にとっては心地よい香りで、またある人にとっては懐かしさを感じさせることも。香りを嗅いだ瞬間、幼い頃のことや学生時代の大切な友人、愛する人の思い出などがよみがえったことはないでしょうか。これは「プルースト効果」と言い、香りが私たちの最も深い記憶や感情への扉を開いてくれる現象なのです。
上記には、ホテル内での利用方法について記載しましたが、ホテル内での体験だけにとどまらず、それを応用して販売する商品などにも活用できると考えられます。
脳に直接作用し、記憶や感情を呼び起こすといった脳科学や環境心理学の視点から、マーケティングにおけるブランド体験を強化するための有力な手段として、香りの戦略的活用を行っていきたいものです。
各ホテルや施設の特徴やターゲット層に応じて最適な香りを選定し、それを顧客体験の一部として提供することで、ホテル業界における競争優位性を高めることができるかもしれません。
 

 

 

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